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tabuniidaの注意散漫

twitterで書ききれない長文を書く、予定

映画虐殺器官の感想

大分前に観てまして、その日のうちに感想書いてました。

3月20日は伊藤計劃の命日であり、ブログを始める一番の切欠でもあります。

ご意見様々ございますし、あれは違うという方ともいらっしゃるかと思いますが、

【私】は映画虐殺器官は、虐殺器官の一つだと言います。製作に携わった皆様に謝辞を。

 

【注意】ネタバレあります。

 

虐殺器官を観て、物語を削るの難しさを感じたお話

・小説の虐殺器官は作品として完成している。面白い面白くないということでもない、設定に矛盾があり欠陥があるということでもない。
人の中に残り語られる作品として完成されている。
・映画の虐殺器官はどうだったのか。映画としては完成した。作品としては虐殺器官の「おおっと、そこざっくり削っちまうのかい」と思ってしまった。
そこを削ったことで、観客はクラヴィスの最後の行動をどう感じたのか。ほかの人はほかの人に任せるとして。
小説を何回も読んだ男(つまり筆者)は、【ルツィアに魅入られた男が、最後まで手に入れられなかったお話】と感じた。
エンタメとしては、【男と女が出合い、しかし結ばれない】というプロットはありだ。悲恋のお話はたくさんあるし、否定しない。

ここからは「ボクが考える虐殺器官」の垂れ流しになる。回れ右をして帰るなら今だ。人の感想とはそういうものだと考えるので、
【自分は自分、他人は他人、異なる考えがあってもいい】という人だけ読んでくれ。
虐殺器官はクラヴィスが欠けたものの充足を願ったが、ついに叶えられなかったお話】、と私は考えている。それはなんだ、と言えば作中でクラヴィス自身が言っている。
欠けたものは以下の通りである。

罪から逃れたいのではない。僕が恐れているのは逆で、自分にその罪を背負う資格がないという可能性だ。その罪が虚構であるという最悪の真実だ。
(早川SFシリーズ Jコレクション「虐殺器官」P.190より抜粋)
ぼくはルツィアに赦すと言ってもらいたい。
(早川SFシリーズ Jコレクション「虐殺器官」P.200より抜粋)

小説の結末は、前者は叶えたが後者は叶わなかった。
映画の結末は、前者を削って、後者は叶わなかった。

映画はクラヴィスの罪悪感の根源となる【母】の存在をばっさり削っている。
パンフレット内で演じ手の中村悠一氏も言及しているし、監督の村瀬功氏もきちんと述べている。監督が削った理由はわからない。作品が残るのでそれがすべてである。

小説はクラヴィスは生の実感を得るために軍隊に入り、その実感の一つとして罪の上に生きて誰かに自分の殺意は自分のものだと言ってもらいたい。と願っている。
殺意が自分のものでないのなら、母の生命維持中止を決め、命を奪った【罪】(あるいは【殺意】)が自分のものでないとされ、生の実感を奪われてしまうからだ。

では映画は原作を忠実に再現せず、敬意もなければ作り手の熱量もないお話の筋道を泣く泣く削るのではなく、歪めてしまった漫画の実写化のような駄作だったのか。
※(漫画の実写化でいいものもあるだろうが、私が観た範囲のものだとバジリスクが酷かった…、デビルマンは怖くて見れません。るろ剣はありだとおもうんですが)

答えはNoである。
敬意も感じられた、こればかりは見て判断してくれ。ただ文章を丁寧に映像にしている、Project Itoh映像化では作り手が一番文章を丁寧に読み込んでいると感じた。
熱量は一度頓挫しかけたものを形にしたことで十二分にあることがわかる。
上記の【母】を削らない場合、前後編の二部構成にしないと尺が厳しくなるだろう。前後編に分けずに入れようと思ったら3時間半ぐらいで何とか詰め込まなくてはならない。
そうするとどこをどうやって削っていくか、変な削り方をすると一貫性がなくなり、歪んでしまう。削るにあたり一貫性があり削ることで新たな観点を提示でき、映像としての盛り上がりがない要素とは。
もろもろの積み上げていき判断の結果が【母】の要素であった。ということだろう。
今私が言ったことを含めていい映画なのだ、他の共感を得られなくても。時間がたって見直したとき、また違う印象を得られるのだろう。

まだ整理がついていない部分があるのが、初見で見た直後という新鮮さを失わないうちに書き残しておくとする。